その町の名を忘却の町。見捨てられた、汚染と廃頽の町。

「こんな……」
 思わず口元を覆う。空気は目に見えるほど淀んでいた。
 足元のコンクリートは凹み、削れ、注意して歩かないとすぐよろけた。整備されている様子はまったくなく、目を覆いたくなる有様。彼女は一生懸命ドレスを持ち上げて、歩きづらそうな靴で奮闘している。
 黒くすすけた白壁と、今にも降って落ちてきそうな屋根からなる家々。割れた街灯、隅のほうで転がっている何か、充満する腐臭。

 今まで見たこともない、想像だにしたことない世界が、そこにあった。
 あの男のなりからして、決して豊かではないことは察していた。……まさか、ここまでとは。

「お前達……」
 ふいに、背後からしゃがれた男の声がする。
「向こう側の連中か……?」
 到底、歓迎の言葉には聞こえなかった。
 いつもよりは幾分質素とは言え、この町では十分すぎるほどの身なり。漂う雰囲気からして、無事に済むはずがない。
「逃げるぞ!」
 こんな状況でさえなければ、初めて手を握った感動にもう少し浸っていたいところだが、待てと叫ぶ男の声に応えるかのように、あちこちから小汚い連中が顔を出すのを見て背筋が凍った。何度も転びそうになりながら、もはやドレスの裾が汚れることなど気にも留めず、二人は薄暗い町を走り抜けた。

「はぁ、はぁ、はぁ」
 どこまでも薄暗く、灰色の、掃き溜め。
(……これが、僕の国)

 普段こんな風に走ることなどめったにない。息が苦しい、足が重い。それでも走るしかない。
 決して来てはいけないところに来てしまった。大人達が高い高い壁を建てて、必死に隠してきた「見てはいけない世界」。忘れていたのではなく、忘れなければならなかった町。

 二人はただ、走った。
 ――そして

「きゃっ!」
 暗闇の中、誰かにぶつかる。状況がわかっていないのか、「ごめんなさい」とうろたえながら、差し出される手。
 灰色の世界の中で、透き通るように白い少女だった。